稠密なる図書たち

ビブリオバトル用図書の処分状況。

おクジラさま(著:佐々木芽美)

 

おクジラさま ふたつの正義の物語

おクジラさま ふたつの正義の物語

 

 

  「動物が好きな人」と「動物に興味がない人」との間にそびえ立つ温度差は激しい。決してどっちが正しくてどっちが間違っているという話ではないのだが、お互いを理解することは難しい。歴史上には、動物が好きすぎるが故に困った人物というものがいる。その最たる例が、「生類憐れみの令」で有名な徳川5代目将軍綱吉だろう。
  綱吉の話は置いておくとして、今回紹介する本「おクジラさま」というタイトルは生類憐れみの令の「お犬さま」を意識してつけられたもの。タイトルの通り、クジラに関する本である。
  日本には古くからクジラ鯨漁が行われているが、欧米からは批難を受けている。日本としては、国際会議の場でも、鯨が絶滅しないような科学的・技術的な措置は取っていると説明しているのだが、欧米からは「鯨は我々と同じ哺乳類だ。鯨を殺すなどという野蛮なことは許されない」という論調で、まったく建設的な話ができない状況が続いている。
  この本の作者の佐々木芽美は日本人だが長い間アメリカ暮らしをしている人である。この本を書くきっかけは、アメリカでとある映画を見たことから始まる。日本の鯨漁についてのドキュメンタリー映画だが、それを見て怒りとも悲しみともつかない感情に襲われたという。鯨漁反対の立場で作られた映画だが、日本の漁師、まるでスプラッター映画のように残酷な形で誇張し、漁師を悪者に仕立て上げている。おまけに伝えている内容に事実誤認が多数ある。日本人として不快だったという感情のほかに、ジャーナリストとして中立性にまったく欠けた映画を見せつけられたことに対する不快感も立ち上がったという。
  作者のこの不快感とは裏腹に、この映画は国際的にも高い評価を受けた。しかも、作者にはアメリカ人の知人も多く、その人たちはみな教養が高いのだが、鯨業の話になると、日本が残酷なことをやっていると思い込んでいるという。作者はここで「日本の鯨業について、海外への情報発信が足りない」と確信した。そこで、日本の捕鯨という同じテーマで、それも出来るだけ中立な立場で映画を作ることにした。そのための取材の過程を書いたのが、この本である。
  言うなれば異なる文化の衝突問題についての本であり、解決の糸口を見いだしづらい話である。取材の過程で、鯨漁の漁村にある青年と交わした「国際人とは何か?」という話が興味深かった。その青年が言うには、国際人とは英語が喋れる人だとか、外国の文化をよく知っている人だとか言われるけれど、そうではない。国際人とは、自分の国の文化について他の文化の人へ堂々と説明できる人だ。さらに言えば、自分の国の文化がおかしいと言われても、それに怯まずに堂々と自分の文化のもっともらしさを伝えられる人だと言っていた。これはまさに、この作者がこの本の中で行おうとしていることそのものである。しかし現実的には、文化の対立のある人に対し自分たちをわかってもらおうとするのはとても難しく、ストレスのたまることである。実際、この作者は映画の製作中に海外からネットで激しいバッシングを受けて心が折れそうになったことも語っている。しかし、ただ黙っていたり、内輪で愚痴をこぼしあっているだけでは断絶は増すばかり。わかり合うことはとても難しいことだけれど、その難しさから逃げてはいけないという心が伝わる。
  また、この本は捕鯨問題についてただ淡々と中立かつ客観的なことを述べているだけではない。取材や映画製作を通じての作者の心の迷いや戸惑いも書かれている。作者は「アメリカ暮らしの長い日本人」という、欧米の立場も日本の立場もどちらともアクセスできる立ち位置にあるが、だからこそ余計に、対立するふたつの文化に対し、どちらに対しても感情を動かされてしまう。ジャーナリストとしては、冷静かつ客観的に事実を描くのがあるべき姿なのかもしれないが、この手の文化対立という話に接するとき、どうしても感情動いてしまうのは人として自然なことだと思う。その感情の動きを追うことも、この本の読みどころである。「自分の文化を相手に伝えることが大切」というと、いかにも意識が高そうで立派なことに聞こえるけれど、実際にこれをやることがどれだけ難しくてストレスのたまることなのかも、直視しないといけないはず。作者の心の動きまで読んで、その難しさも直視することが、相互理解することの難しさを乗り越えるために必要なことなんじゃないかと思う。