人類の歴史は暴力の歴史である(書評とか数学とか)

だらだらと。数学と書評が中心の予定。本業は構造設計だがお仕事の話をするつもりは無い。

怪談の学校(著:京極夏彦、木原浩勝、中山市朗、東雅夫)

 

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

 

 怪談とは、日本に古くからある夏の風物詩の一つ。怖い話を語り合って、ゾッとして、涼しくなろうという文化・風習である。

怪談について扱った本は、古典から現代に至るまで数多く存在する。その事実こそ、時代が移り変わろうとも怪談という文化が脈々と生き続けている何よりの証である。その中でも、この記事で紹介する「怪談の学校」(「学校の怪談」ではありません!)はかなり風変わりなアプローチの怪談書である。

著者は「怪談の怪」という、京極夏彦木原浩勝、中山市朗、東雅夫という豪華4人によるユニット。京極夏彦といえば「京極堂シリーズ」でお馴染みの小説家。「嗤う伊右衛門」など怪談をモチーフとした小説も多数執筆している。木原浩勝・中山市朗といえば、実話怪談小説シリーズのベストセラー「新耳袋」の著者。東雅夫もまた、怪談・ホラーあるいは幻想文学の分野でも数々の仕事を手がけている編集者かつ文芸評論家である。

「怪談の学校」の内容を一言で説明すると、怪談小説の書き方の指南書である。雑誌「ダ・ヴィンチ」で、かつて公募企画「怪談小説・創作教室」というものがあった。募集要項は「四百字詰原稿用紙三枚以内で、あなたの思う『怪談小説』を創作してください」というもの。投稿作品の中から選ばれたものへ、著者4人が怪談執筆について添削指導するという企画であり、全32回にわたりダ・ヴィンチに掲載された。この企画は1999年から2004年まで続き、投稿作品は一千編近く寄せられた。「怪談の学校」とは、この連載企画が単行本化されたものである。例えば「小説の書き方」や「シナリオライターの入門書」という類の書籍であれば世の中にすでに数多く流通しているが、「怪談小説」にターゲットを絞った創作教室というものは本書以外にはほとんど類を見ないものであろう。

本書ではどんなスタンスで「怪談の書き方」を教えているのか? そもそも怪談とは何か? 言うまでもなく、怪談とは「怖さを伝える話」である。では「怖さを伝える話」とは、一体どんな話だろうか? 本書ではまず、「少なくとも我々4人の間で、怪談の定義についてある程度は確立させておく必要がある」という話から始まる。

世間一般では、怪談といえば「幽霊が出てくる話」「妖怪が出てくる話」あるいは「トイレの花子さんが出てくる話」というイメージも強い。しかし本書では、これらを「怪談」と呼ぶことについて異を唱えている。彼ら4人にとって、「幽霊を見た話」では怪談とは呼べない。一方「どう考えても幽霊としか思えない何かを見た話」は怪談と呼べる。両者の違いは一体なにか?

前述の通り、怪談とは「怖さを伝える話」である。ここで「怖さ」という感情について考えてみると、それは理性的な世界からは外れたところで生まれるものである。論理的な説明がつくようなものは、怖いとう感情には結びつかない。何か得体の知れないものを見たとき「あれは幽霊だ!」と説明を加えることは、その意味ではおかしなことである。幽霊を信じていない人であれば、例えば猫を見間違えたのでは、あるいは樹木がガサガサ揺れているのを見間違えたのでは……あらゆる現実的な可能性や解釈を考えるはずである。にもかかわらず、どう考えても説明のつかない得体の知れないものを見てしまったとわかったときにはじめて怖いという感情は生まれる。怖さの生まれる話、すなわち怪談である。仮にもし幽霊を信じている人が幽霊(と思えるもの)を見たなら、本来そこには恐怖は生まれないはず。幽霊の存在を信じているのだから、その人にとって幽霊を見るのはごく自然はことのはずで、「こんにちは」と挨拶でもすればいいだけの話。そこには怖さは生まれない。現れたものをすぐに幽霊と呼んでしまう話とは恐怖とは結びつかず、怪談とは呼べない。怪異とは、人の理解を超えた解釈不能な現象。それを伝える話こそが怪談である。まず想像し得ないものを想像できなければ怪談は作れないだろう。

では一体どうすれば、「怪談=怖さを伝える話」を書くことができるのか。例えば「生首が飛んだ」という文章に、怖さは感じられるだろうか? ちょっと文章として平凡ではないだろうか。この書き手はおそらく「生首ってキーワードを出しておけば、読む人は怖がってくれるだろう」と高を括った考え方をしているのだろう。この場合、それはどんな生首がなのか? 目は開いているのか? 血は滴っているのか? 生首というけど本当に生なのか? 腐ってはいないのか? これらを考えもせずに「生首が飛んだ」と書いても読み手に怖さは伝わらないだろう。怖さを伝えるためには、怪談小説の書き手はまず型にはまった表現に頼ってはいけない。書き手にとって何が、どう、どこが、なぜ怖いのかを考えに考え込む。それを文章へ込め、それをより怖くするにはどうすればいいのかをさらに考える。これこそ怪談の書き手の腕の見せ所である。例えば「生首が飛んだ」よりも「生首の目が見開いていた」という書き方のほうが、怖さのポイントが絞られていないだろうか?

本書は「怪談小説の書き方」という、読者層のターゲットの狭い本のように見えるが、本当にそうだろうか。本来すぐれた小説や物語とは、読み手の感情を激しく揺さぶるものでなければいけないはずである。ということは、本書の主題である「感情を揺さぶる文章とは何か? それをどうやって書くか?」という話は、あらゆる小説・脚本あるいはシナリオの創作にとって共通する重要なテーマと言える。やや大袈裟な言い方をすれば、物語を創作するための本質的なこととは、怪談小説の創作術から学べてしまうのだ。

(余談:この記事は、2016年7月22日、有隣堂STORYSTORY新宿店 ビブリオバトルで私が発表した内容をもとに作成した。なおビブリオバトル当日、有隣堂のスタッフから本書は品切れで入荷不可とのお話を聞いた。ぜひ復刊ドットコムなどへ働きかけを!)