稠密なる図書たち

ビブリオバトル用図書の処分状況。

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った (著:アンドレアスベルナルト、訳:井上周平、井上みどり)

 

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

 

  人類史上には、生活スタイルや社会のあり方そのものを変えた大発明というものがある。かつてであれば火薬や車輪やネジがこれに当たるだろうし、近現代では自動車やあるいはスマートフォンもそうだろう。
  しかし、エレベーターもまたそんな人類史上の大発明だと言われても、ピンと来ない人も多いのではないだろうか。そんな人は、この「金持ちは、なぜ高いところに住むのかー近代都市はエレベーターが作った」という本を読んで欲しい。エレベーターの歴史についての本である。エレベーターが社会に普及したことによって、人々の生活環境がどのように変化したかについて焦点を当てて分析・解説を行なっている。著者はドイツの方で、分析対象のエレベーターもドイツとアメリカのものが中心である。
  エレベーターの起源は、実はかなり古く、古代ギリシャやローマまで遡ることができる。ただし、この時代のエレベーターとは鉱山の発掘現場などのために使われていたもので、ロープが切れる事故がたびたび起こるなど、安全性に問題のあるものだった。エレベーターの安全性の問題が克服されるには、19世紀の中頃まで待たなければならない。この時代に、エレベーターの安全装置を発明したというプレゼンテーションが博覧会で行われた。ロープが切れてもエレベーターかごが自動的に停止して、中の人の安全が確保されるというものである。この安全装置の発明が、一般の人々が利用するためのエレベーターの生まれる土壌がとなったのだ。 (ただし本書によれば、このエレベーターの安全装置のプレゼンがエレベーター普及の起源であるというストーリーは後世の後付けで、実は博覧会が開かれた当時はこのプレゼンに対する反響はそれほど大きくなかったらしい。技術が社会に普及するスタートポイントというのはもう少し複雑だという話だ)
  エレベーターが一般社会に普及するようになったのは19世紀の終わりごろから20世紀に始めごろである。この頃、アメリカやヨーロッパで鉄骨の高層ビルが次々と建てられ始めた。そんな高層ビルにエレベーターが導入された。言うなれば、縦方向の移動装置である。このほか水道管や電気ケーブルもまた高層ビルの中を縦方向に走る要素である。縦方向を貫く要素とは、これまでの時代の建物には無かったもので、やや大袈裟な言い方をするなら、近代の建築を特徴付ける要素の1つでもある。
  しかし、エレベーターの登場とは、単に建物を上り下りするための便利な設備が誕生したというだけの話ではない、というのが本書の主題である。
  本書の邦題「金持ちはなぜ、高いところに住むのか」という言葉の通り、私たちは無意識のうちに「金持ち=高いところ」というイメージを持っている。金持ちに限らず、例えば映画やTVドラマでも、大企業の社長や重役が、ビルの高いところに社長室を構えて、窓ガラスから偉そうに外の街並みを見下ろすというシーンを見たことがあるだろう。では、このようなイメージがどのようにして生まれたのだろうか?
  実は、エレベーターが一般社会に普及する以前は、「金持ち=高いところ」というイメージは人々の間にはなかった。建物の最上階といえば当時は屋根裏部屋というイメージが強く、建物の高いところといえばむしろ貧乏人や召使いなど、身分の低い人々のための空間だったのだ。これはエレベーターが無ければ上り下りをするのが大変なので高いところでとても不便であることに加え、建物の最上階や屋根から太陽の熱が伝わりやすく、熱がこもりやすいため衛生面でも不潔な空間だった。その時代の金持ちは、低いところに住んでいたのだ。
本書では、エレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」の社会的なイメージ、つまり高いところ、低いところはどんな人のための空間なのかを、あらゆる角度から分析を行なっている。例えば高層ビルのホテルにおいて、高い階の部屋と低い階の部屋では宿泊料がどのように設定されていたのか? または、この時代の小説の世界で、高いところに住む人、低いところに住む人は一体どんなキャラクターとして描かれていたか? その結果わかったこと。エレベーターが普及して間もない19世紀の終わりごろまでは、まだ「金持ち=低いところ」というという旧時代の価値観が残っていた。そして時代が進んで20世紀になると「金持ち=高いところ」というイメージが生まれたということがわかった。つまりエレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」という場所が持つヒエラルキーが逆転したのだ。現在私たちが当たり前のように持っている「金持ち=高いところ」というイメージは、こうして生まれたのだ。
  エレベーターの登場によってもたらされた、身の回りの環境の変化はこれだけではない。私たちは、建物やビルの中は1階2階3階と空間が階ごとに水平方向に区切られていることに、何の疑いを持っていないだろう。実はエレベーターが普及するまでは、建物の中が階ごとにきっちり秩序立てられていないものも多かった。「階」という概念そのものはかつての時代にもあったのだが、それほど厳密なものではなく、中2階のように、部屋の床の高さが部屋ごとに揃えられていないものも多かった。エレベーターが建物に導入されると、エレベーターとは階ごとにしか止まることができないため、建物内の空間もエレベーターの動きに合わせるかのように階ごとに水平方向に秩序付けなければいけなくなった。「階」という概念が建物を秩序づけるためになくてはならないものになったのは、実はエレベーターの登場以降なのだ。
  エレベーターというと、今では私たちの身の回りに空気のように当たり前のようにあるものだが、実はこれは、社会の構造や、私たちの持っている社会的なイメージまで更新するほどの力をもったものだ。
  最後にひとつ、こんなエピソードを紹介。1913年、ロシアの皇帝がドイツを訪問したときのこと。最初はロシア皇帝一行は4階建ての建物に宿泊する予定だったが、とある事情から2階建ての宿泊所に変更された。そのとある事情とは次の通り。当時のロシアの皇帝やその側近は、歩き方やドアの開け方など、動作の一つ一つが様式として厳格に決められていた。しかし4階建ての宿泊所にあるエレベーターの中では、皇帝とその側近はどのように振る舞わなければならないのか、その様式がそもそも存在しなかった。だから皇帝もその側近も、どうやってエレベーターに乗ればいいのかまったくわからなかったのだ。王室と新技術とは、かくも食べ合わせが悪いものだ。

 



 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち(著:新井紀子)

 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

AIブームは続くよどこまでも。この本もまた、世の中に数多く出回っているAI本の1つとして書店で平積みされていることの多いものである。タイトルに「vs(バーサス)」と付いていることからも、AIと人間、言い換えればコンピュータと人間の対立・対決を予感させる。しかし、この本に書かれているAIと人間の対決・対立とは、巷に数多くあるAI 本と比べても、極めて異色である。
本書の内容は、大きく2つに分けることができる。前半は、「AI(人工知能)とは何か」という話を、かなり詳しく解説している。著者は数学者だけあり、言葉や概念の定義にはかなり厳格で、しかも昨今のAIブームのなかで使われるAI技術関係の言葉ーー例えばAI、ビックデータ、強化学習、シンギュラリティなどなどーーのいい加減さに対する著者の苛立ちも、行間から臭ってくる。
著者によるAIの解説は、かなり身もふたもないものである。例えば、著者は「AIが人間に完全に取って代わられるという未来は、まずあり得ない」と断言している。その理由は次の通り。AIとは計算機に過ぎないので、突き詰めて言えば、足し算や掛け算といった四則演算しか行うことができない。つまりAIに解ける問題とは、何かしらの形で数学の形式に置き換えられるものだけである。AIが囲碁のプロに勝つことができたのは、囲碁のルールを数学の形式に置き換えることに成功したからである(もちろんこれは凄いこと)。しかし世の中に存在する数多くの問題のうち、AIに解ける問題、つまり数学で置き換えられるものはごく一部だけ。つまりAIに解けない問題というものは数多くある。よってAIが人間に変わってこの世のありとあらゆる問題を解決してくれるという未来はあり得ない。こんな調子で、AIへの夢をぶち壊すようなことを、極めてロジカルに説明してくれるのだ。
著者はAIに関するとあるプロジェクトのリーダーを務めていた。この話が本書の前半のヤマである。それは「東大の入試に合格できるAIを開発する」というものである。結果から言ってしまうと、このようなAIを実現することはできなかった。しかしこのプロジェクトを通じて、AIに何ができて何ができないかをより深く理解できたことが、このプロジェクトの大きな成果である。例えば、AIの苦手科目って一体なんだろうか? それは国語と英語である。さらに、一見するとAIは数学が得意と思われるかもしれないが、実は文章題になると途端に苦手になるのである。これらに共通する要因として、そもそもAIは文章の意味を理解できないという特性がある。確かにAIは文章を生成したり翻訳したりすることはできる。しかし、これはAIが文章の意味を考えて行っているのではない。大量の文章のサンプルデータを与えて(これが俗にビックデータと呼ばれるものである)、そこから確率・統計的な手法を用いて、もっともらしい文章を作っているのである。さらに著者は、計算機の処理速度が今より向上しても、それで東大入試に合格できるAIが実現できるわけではないと主張している。理由は、上記の「AIは文章の意味を理解できない」という特性は、計算機の処理速度が早くなったからといって克服できるようなものではない、ずっと根本的な問題点だからだ。
本書の後半では、子どもの学力へと話題が移る。上記のプロジェクトの中で、AIを開発することと並行して、実際の中高生の学力調査が行われた。この調査結果により、本書のタイトルにある「教科書の読めない子どもたち」というものの実態が明らかになる。中学生・高校生のうち、文章を読んでその意味を正しく理解することが苦手な人が多いことが明らかになった。AIは文章の意味を理解することができない。では人間は文章の意味を理解するのが得意なのかといったら、そうでもないという皮肉な結果が出てしまったのだ。もちろん子どもによって能力差はあるにはあるが、多くの子どもは、教科書レベルの日本語も正しく理解できないという結果なのだ。
かく言う私自身も、高校受験や大学受験に挑んでいたのは遠い昔の話だが、その頃を振り返ってみても、教科書を隅から隅まで読み込んだという記憶や実感がまったくない。むしろ、どうやってテストの点数を稼ぐかのコツを身につけようとしていた記憶がある。要するに私自身も、教科書を読めていなかったのかもしれないし、正しく読んでいたのかと改めて問われると、思わず目が泳いでしまう次第である。これでは、受験が終わった瞬間にそのとき必死で覚えた知識があっという間に頭から消え去ってしまうのも、当然といえば当然の話だ。つまり、この本で書かれた学力調査結果は確かにショッキングなものであるが、私自身の学生時代の体験と照らしわせて考えると当てはまるところがかなりあるように思える。そう考えると、この調査結果も納得のできるものではないかと個人的には思った。
本書のポイントを改めて述べると①AIは、世間で言われているほど万能なものではない、②AIが苦手な読解力は、多くの人間にとっても苦手なもの、ということ。私がその辺の書店でAI本をいくつかパラパラ立ち読みした印象では、世間に溢れる数多くのAI本は、AIという技術がいかに凄く、それが社会のあり方をどう変えるか、人間はどう進化するか? といった意識の高い話が多い気がする。しかしこの本は「AIはそこまで凄くない。しかし人間だってへぼい」とでもいうような、まるでダメさ加減で争っているようにも見えて、他のAI本とはアプローチが180度異なる。この本が数多くのAI本の中でも異色なのは、まさにこの点に尽きる。
というわけで人間にとっては、AIとかシンギュラリティとかによって変容していく未来に適応するには人間はこの先一体どのような進化を遂げる必要があるのかと意識高く悩む前に、まず教科書レベルの文章を読める読解力を身につける教育法を作ることの方が急務なのだ。実際には子どもにも能力差があり、はじめから読解力の高い子どもは教科書もスラスラ読めるし、そういう子どもは極端に言えば放っておいても勝手にいろんなことを勉強していろんなことを身につけてしまう。逆に、読解力の低い子どもは、AIが苦手である読解力でもAIに対抗することはできない。では、近い未来にいろんな職業がAIに取って代わられたとき、読解力の低い子どもには、大人になった時に一体どんな職業が残されているのか? 子どもの読解力の格差は、未来の格差社会の火種そのものである、というような話が本書でも展開されている。
ちなみに、著者も一応は、子どもの読解力を向上させる学習法はなにかないかとあれこれ検討したが、今のところ有効と言える方法は見つけられなかった、と本書で記している。もしうまい学習方法がが見つかって、それを本にして、売れば……もっともっと本が売れるのに!とも嘆いていた。子どもの読解力を鍛える方法……大きなシノギの匂いがするぜ。

 

赤いオーロラの街で(著:伊藤瑞彦)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

私たちの想像し得る、最もリアルかつ最も過酷な危機的状況とはなんだろうか? 戦争や核兵器という答えがまず挙がるかもしれない。これと匹敵するくらいの状況として「エネルギーが無くなること」という答えもあるだろう。私たちの生活がどれだけ電力に依存しているかを考えれば、エネルギーが無くなるという状況がいかに過酷であるかは言うに及ばないだろう。しかも我が国はエネルギー自給率の低いことや自然災害の激しいことを考えると、これはリアルに考えうる危機的状況とも言える。ひょっとしたら今の現役世代にとっては、戦争よりもエネルギー危機のほうが、リアルに想像できる危機的状況なのかもしれない。

「赤いオーロラの街で」とは、そんな危機的状況を描いた日本のSF小説である。舞台は現代の日本。ある日、超巨大な太陽フレアが発生し、桁違いに巨大な太陽風が地球を襲う。これにより地球の磁気圏が大きく変形する。変形した磁気圏は元に戻るのだが、元に戻るときに強力な誘導電流が巻き起こる。この誘導電流で世界中の変電設備が焼き切れる。そして世界中で停電が発生する。焼き切れた大規模な変電設備は、作り直すことそれ自体に大きな電力を必要とするが、世界中が停電した今、変電設備を作り直すのに一体何年かかるのかまったく目処が立たない。おまけに、この巨大な太陽風の影響でGPSなど通信電波もほぼ使い物にならなくなってしまう。

電力も通信電波も使えないとなると、私たちの生活に一体どんな支障が起きるのか? 電灯が使えないので室内が暗い。冷蔵庫が使えないので食品の保存も難しい。水道ひとつとっても、水を汲み上げたり汚い水を処理したりするのにも電力が要るので既存の水道システムも役に立たない。エレベーターももちろん使えない。おまけに通信電波も使えないため、テレビも受信できない。携帯電話も使えない。つまり私たちの生活もあらゆるものを支えていたインフラが死んでしまうのだ。吉幾三もびっくりの文明レベルを受け入れざるを得ない。この作中の言葉を借りると、人々は中世並みの文明で生活せざるを得なくなったのである。

主人公は日本のごく普通のITエンジニア。たまたま北海道に出張に行っていたときのこの大災害が起きる。作品タイトル「赤いオーロラの街で」とは、太陽風の影響で世界中に赤いオーロラが発生したことに由来する。太陽風の影響でGPSが死んだため、飛行機が飛び立てなくなってしまい、主人公は北海道に立ち往生せざるを得なくなる。この北海道の地で、地域の人たちと協力しながら、この危機的状況でどうやって生活を立て直そうかと奮闘する物語である。

この小説には、特別な能力をもったヒーローのような存在はいない。主人公も含めて、皆がごく普通の人たちである。役場の職員、病院関係者、酪農家、土建業者、あらゆる職業の人たちが集まり、何ができるかを考え、実行していく。例えば、通信電波が死んだため、情報の伝達手段には回覧板や掲示板が使われるようになる。船の航海法には、GPSが発明される以前の、天測航法が再び重宝されるようになる。大規模な電気設備は死んだが、家庭用のソーラーパネルはまだ生きているものも多いため、それらをかき集めて、工場を稼働させる電力を作ろうという試みも行われる。

SF小説と呼ぶには、あまりに地味な行動や出来事が続く物語に見えるかもしれない。実際、物語の導入こそスケールの大きな話だが、そこから先はただ「生活を立て直す」という目的に向かって行動する様子が続くのみである。しかしこれは逆に、危機的状況への闘い方として私たちがリアルに感じることのできるものであるとも言える。結局のところ、太陽フレアというスケールの巨大すぎる災害を食い止めるなど、人類の叡智を遥かに超える行為である。私たちにできることは、起きてしまった事態に対して、いかに状況を立て直すかということのみである。一瞬ですべてを無かったことにしてくれる超越的な解決手段は存在しない。社会を立て直すことは、普通の人たちが力を合わせて地道なことを続けることによってのみ可能なことなのだ。

状況こそ深刻だが、それに対しこの小説の登場人物たちがどんな工夫を凝らすのか、その様子を読み解くのはとても楽しい。それは、この主人公も台詞にも現れている→『不謹慎な話かもしれないけれども、停電当初に起こったことを聞きに町内を回ることは、とても楽しい仕事だ。それは、世界停電前までは意識することもなく生活に使っていた様々な社会システムを、つまり世界がどのように成り立っていたのかを知る作業と言えた。(p204-205)』

おクジラさま(著:佐々木芽美)

 

おクジラさま ふたつの正義の物語

おクジラさま ふたつの正義の物語

 

 

  「動物が好きな人」と「動物に興味がない人」との間にそびえ立つ温度差は激しい。決してどっちが正しくてどっちが間違っているという話ではないのだが、お互いを理解することは難しい。歴史上には、動物が好きすぎるが故に困った人物というものがいる。その最たる例が、「生類憐れみの令」で有名な徳川5代目将軍綱吉だろう。
  綱吉の話は置いておくとして、今回紹介する本「おクジラさま」というタイトルは生類憐れみの令の「お犬さま」を意識してつけられたもの。タイトルの通り、クジラに関する本である。
  日本には古くからクジラ鯨漁が行われているが、欧米からは批難を受けている。日本としては、国際会議の場でも、鯨が絶滅しないような科学的・技術的な措置は取っていると説明しているのだが、欧米からは「鯨は我々と同じ哺乳類だ。鯨を殺すなどという野蛮なことは許されない」という論調で、まったく建設的な話ができない状況が続いている。
  この本の作者の佐々木芽美は日本人だが長い間アメリカ暮らしをしている人である。この本を書くきっかけは、アメリカでとある映画を見たことから始まる。日本の鯨漁についてのドキュメンタリー映画だが、それを見て怒りとも悲しみともつかない感情に襲われたという。鯨漁反対の立場で作られた映画だが、日本の漁師、まるでスプラッター映画のように残酷な形で誇張し、漁師を悪者に仕立て上げている。おまけに伝えている内容に事実誤認が多数ある。日本人として不快だったという感情のほかに、ジャーナリストとして中立性にまったく欠けた映画を見せつけられたことに対する不快感も立ち上がったという。
  作者のこの不快感とは裏腹に、この映画は国際的にも高い評価を受けた。しかも、作者にはアメリカ人の知人も多く、その人たちはみな教養が高いのだが、鯨業の話になると、日本が残酷なことをやっていると思い込んでいるという。作者はここで「日本の鯨業について、海外への情報発信が足りない」と確信した。そこで、日本の捕鯨という同じテーマで、それも出来るだけ中立な立場で映画を作ることにした。そのための取材の過程を書いたのが、この本である。
  言うなれば異なる文化の衝突問題についての本であり、解決の糸口を見いだしづらい話である。取材の過程で、鯨漁の漁村にある青年と交わした「国際人とは何か?」という話が興味深かった。その青年が言うには、国際人とは英語が喋れる人だとか、外国の文化をよく知っている人だとか言われるけれど、そうではない。国際人とは、自分の国の文化について他の文化の人へ堂々と説明できる人だ。さらに言えば、自分の国の文化がおかしいと言われても、それに怯まずに堂々と自分の文化のもっともらしさを伝えられる人だと言っていた。これはまさに、この作者がこの本の中で行おうとしていることそのものである。しかし現実的には、文化の対立のある人に対し自分たちをわかってもらおうとするのはとても難しく、ストレスのたまることである。実際、この作者は映画の製作中に海外からネットで激しいバッシングを受けて心が折れそうになったことも語っている。しかし、ただ黙っていたり、内輪で愚痴をこぼしあっているだけでは断絶は増すばかり。わかり合うことはとても難しいことだけれど、その難しさから逃げてはいけないという心が伝わる。
  また、この本は捕鯨問題についてただ淡々と中立かつ客観的なことを述べているだけではない。取材や映画製作を通じての作者の心の迷いや戸惑いも書かれている。作者は「アメリカ暮らしの長い日本人」という、欧米の立場も日本の立場もどちらともアクセスできる立ち位置にあるが、だからこそ余計に、対立するふたつの文化に対し、どちらに対しても感情を動かされてしまう。ジャーナリストとしては、冷静かつ客観的に事実を描くのがあるべき姿なのかもしれないが、この手の文化対立という話に接するとき、どうしても感情動いてしまうのは人として自然なことだと思う。その感情の動きを追うことも、この本の読みどころである。「自分の文化を相手に伝えることが大切」というと、いかにも意識が高そうで立派なことに聞こえるけれど、実際にこれをやることがどれだけ難しくてストレスのたまることなのかも、直視しないといけないはず。作者の心の動きまで読んで、その難しさも直視することが、相互理解することの難しさを乗り越えるために必要なことなんじゃないかと思う。

心の哲学入門(著:金杉武司)

 

心の哲学入門

心の哲学入門

 

 

「ロボットに心はあるのか?」「ロボットに、人間と同じような心を持たせることは可能なのか?」とは、SFの世界でも古くから問われている問題である。この問題を考えるには、「そもそも心とは何か」という話から深く考えないといけない。よくよく考えると不思議なことに、私たちは、人間には心があることにはなんの疑いも持っていない。にも関わらず、心とは一体何かと問われると、明確には答えられない。
心の哲学入門」とは、その名の通り「心とはなにか」を哲学するための入門書だ。「哲学」という名が付いていることからも分かる通り、心の正体について、理屈でもってアアデモナイコウデモナイという議論が繰り広げられる。本書の目的はもう一つあり、「心とはなにか」という具体的な問題を一冊まるまる通して解説することで、「哲学的に考えるとは、こういうことだ」という哲学一般の方法論を示した入門書にもなっている。例えば、哲学的に考えるためにまず土台となるのは、常識的な考えなのだということ。「心とはなにか」ということを私たちは常識的には知っている。何かを欲しがったり、嬉しかったり悲しかったりするのは何故かというと、これは常識的に考えれば、私たちに心があるからだ。心の定義はできなくても、心とはどんなものなのかは、ある適度までなら常識であれこれ論じることができる。この常識こそが「心とはなにか」という問題を考える出発点になる。もちろん常識が間違っているということはいくらでもあり得る。例えば太古の昔は地面は平らだという考えが常識だったが、それは間違いで、実は地球は丸かったのだ。そういう意味では、常識とはそれほど当てにならないものである。しかし常識のまったくない状態で何かを考えたり哲学したりすることはそもそも不可能。哲学の土台となるのは常識である、という考え方の作法が学べてしまう入門書なのである。
出発点こそは常識だが、そこから先へ考えを構築していくための道具になるのは、あくまで理屈である。とりわけ論理的であることが重要視される。「心の志向性」「構文論的構造」「想定可能性論法」といった、難しそうで読み飛ばしたくなるような漢字だらけの名称の概念もしばしば飛び交う。しかしこの本は親切なことに、これらの概念の説明には必ず私たちが日常的・常識的に身近に感じられる具体例が付け加えてられている。この本を読む上での専門的な予備知識は必要ないと言っていい。概念や専門知識の解説はすべて本書の中に用意されている。解説を読んで、あとは自力でじっくりと考えてその概念を理解しながら読み進めればいいのである。
逆にいうと、この本の内容を理解するには、それ相当にじっくり頭を働かせて考えることが要求される。概念を理解するためには、自分で納得できるまで考え込まなければならない。簡単には理解できない概念だってある。この本には要所要所でQ&Aのコーナーがあり、初心者によくある疑問とそれへの回答も紹介されている。質問の中には「この概念、おかしくないですか」という批判めいたものもあるが、中途半端な批判は回答でメッタメタに返り討ちにされているのが恐ろしいところ。
この本の結論は「心とはなにか、という問いには私たちはまだ明確な答えが出せない段階である」とまとめられている。一見すると拍子抜けの結語であると思うかもしれないが、そんなことはない。この本を通じて得られるのは「哲学的に考えるとはどういう事か? どんな方法があるのか?」ということであり、もっと噛み砕いて言えば「私たちの生活の土台となるような基礎的なものだが、それが何なのかうまく説明できないもの」を説明するための方法論なのである。例えば「時間」や「道徳」なども、「私たちの身近にあり、それがなんなのか知っているつもりだけど、明確な定義はと問われるとうまく説明できないもの」である。この本を参考に、じっくり考えてみるのも悪くないかもしれない。

イギリス紳士のユーモア(著:小林章夫)

 

 

イギリス紳士のユーモア (講談社学術文庫)

イギリス紳士のユーモア (講談社学術文庫)

 

 イギリス紳士のような、高貴なマナーの立ち振る舞いのできる大人になりたい。しかしイギリス紳士って、一体どうやったらなれるのか? 「まずは形から入る作戦」で、シルクハットにコウモリ傘を片手に街を歩いてみるところから入ってみるのも悪くないかもしれない。しかしたったこれだけではただのコスプレでしかない。もっと内面からイギリス紳士になりきりたい! という我儘な欲望も自然と生まれるはず。そんなときは「イギリス紳士のユーモア」を学んで、内面からイギリス紳士になりきるのだ。そもそもイギリス紳士のユーモアとはなにか? その辺のおっさんのユーモアと何が違うのか?その謎に迫るためには、まず「イギリス紳士とは何か」という問題を深く掘り下げるという準備運動が要る。

著者はもともとイギリス文学専攻の大学教授。著者はイギリスへの留学経験があり、本書はそこで得た体験を元に書かれている。イギリス紳士は伝統を大切にする、フェアな精神に重きをおくといった話が、著者の実体験エピソードとともに書かれている。このあたりはエッセイとして軽妙な文章で書かれているので、リラックスして気楽に読むことができる。

注意しなければならないのは、イギリス紳士にも大きく分けて二つの出身があることだ。これを理解するには、イギリス社会がどのように変化してきたかに注意せねばならない。まず一つは、中世の時代から名門的な家系出身の、正統な紳士。もう一つは、時代が進むにつれてイギリスでも封建社会が崩れてきたため、それに伴い現れた庶民階級出身の成り上がりの紳士。どちらの紳士も、紳士らしい作法やマナーをどこかで学ばなければ、イギリス紳士を名乗ることは許されない。名門出身の紳士は、家系がそもそも紳士なので作法やマナーも家庭内教育によって得ることができる。では成り上がり紳士の場合は? 封建社会が崩壊したころイギリス社会ではパブリックスクール、つまり学校教育が普及し、成り上がり紳士はそこでマナーや作法を身につけ、さらにスポーツを通じてフェアプレーの精神も学んで、こうして紳士に成り上がったのである(ここで、ジョナサン・ジョースターが少年時代にボクシングをしているシーンが頭に浮かぶ。彼もれっきとした英国紳士なのだ)。

では、そんな紳士的作法やマナーを見につけたイギリス紳士にとってのユーモアとはいかにあるべきか? 紳士にとって大切なのは、おおらかな精神、そしてどっしりとした余裕ある態度。ユーモラスな発言をするときも、この精神を決して忘れてはならない。つまり、単におかしなことを言うだけでは、その辺のおっさんとなんら変わらない。ユーモアをゆとりある紳士的な態度で包みこむことが必要なのだ。感情を表に出してもダメ。いつでも平然とした態度でいなければいけない。この本にではイギリスの元首相チャーチルのユーモア発言がいくつも紹介されていて、人を食ったようなユーモアがいくつも紹介されている。厳しい質問を浴びせる新聞記者に対しても、ユーモアを武器に平然と返り討ちにしてしまうのだ。この辺りで、「イギリス紳士のユーモアって、ハードル高くね?」という諦めの精神が脳裏をよぎってくる。

イギリス紳士のユーモアの深淵、それはブラックユーモア、つまり毒のあるユーモアである。ガリバー旅行記の著者であるジョナサン・スウィフトという作家は、イギリス紳士であると同時にもともとはアイルランド出身。当時アイルランドでは貧困問題や食糧危機が深刻だった。そこでスウィフトは「穏健なる提案」と呼ばれる文章を発表した。しかしこれが穏健とは程遠い、毒々しさに満ちた内容だった。アイルランドの貧乏人は赤ん坊を食べてしまえば貧困問題は解決だ、という過激な提案を行なっているのだ。この本にはその文章が引用されているが、淡々とした文章で、赤ん坊の体重は何キロだとか、これで何人ぶんの食料を得られるとか、殺伐とした話を数値によって説明している。とても笑えるような代物ではない。この文章を読んだ夏目漱石も、本気でこれを書いているのだというなら狂っているとまで言っていた。なぜここまでぞっとするような文章を発表したのか? アイルランドの貧困問題は、イギリス内でいくら声高らかに訴えてもだれも興味をもってくれない。ならば過激な内容で訴えることで注目を浴びるのだ。つまりスウィフトは単にに猟奇的な話を書いたのではない。ブラックユーモアの使い方と効果を知り尽くしてたうえでの、この文章なのだ。

表情ひとつ変えない態度がイギリス紳士のユーモアではあるが、その深淵は深くて黒い。私はこの本さえ読めば自分もイギリス紳士になれるのではと期待していたが、結論としては、とても一朝一夕ではイギリス紳士のユーモアは習得できそうもないことがわかってしまった。

怪談の学校(著:京極夏彦、木原浩勝、中山市朗、東雅夫)

 

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

 

 怪談とは、日本に古くからある夏の風物詩の一つ。怖い話を語り合って、ゾッとして、涼しくなろうという文化・風習である。

怪談について扱った本は、古典から現代に至るまで数多く存在する。その事実こそ、時代が移り変わろうとも怪談という文化が脈々と生き続けている何よりの証である。その中でも、この記事で紹介する「怪談の学校」(「学校の怪談」ではありません!)はかなり風変わりなアプローチの怪談書である。

著者は「怪談の怪」という、京極夏彦木原浩勝、中山市朗、東雅夫という豪華4人によるユニット。京極夏彦といえば「京極堂シリーズ」でお馴染みの小説家。「嗤う伊右衛門」など怪談をモチーフとした小説も多数執筆している。木原浩勝・中山市朗といえば、実話怪談小説シリーズのベストセラー「新耳袋」の著者。東雅夫もまた、怪談・ホラーあるいは幻想文学の分野でも数々の仕事を手がけている編集者かつ文芸評論家である。

「怪談の学校」の内容を一言で説明すると、怪談小説の書き方の指南書である。雑誌「ダ・ヴィンチ」で、かつて公募企画「怪談小説・創作教室」というものがあった。募集要項は「四百字詰原稿用紙三枚以内で、あなたの思う『怪談小説』を創作してください」というもの。投稿作品の中から選ばれたものへ、著者4人が怪談執筆について添削指導するという企画であり、全32回にわたりダ・ヴィンチに掲載された。この企画は1999年から2004年まで続き、投稿作品は一千編近く寄せられた。「怪談の学校」とは、この連載企画が単行本化されたものである。例えば「小説の書き方」や「シナリオライターの入門書」という類の書籍であれば世の中にすでに数多く流通しているが、「怪談小説」にターゲットを絞った創作教室というものは本書以外にはほとんど類を見ないものであろう。

本書ではどんなスタンスで「怪談の書き方」を教えているのか? そもそも怪談とは何か? 言うまでもなく、怪談とは「怖さを伝える話」である。では「怖さを伝える話」とは、一体どんな話だろうか? 本書ではまず、「少なくとも我々4人の間で、怪談の定義についてある程度は確立させておく必要がある」という話から始まる。

世間一般では、怪談といえば「幽霊が出てくる話」「妖怪が出てくる話」あるいは「トイレの花子さんが出てくる話」というイメージも強い。しかし本書では、これらを「怪談」と呼ぶことについて異を唱えている。彼ら4人にとって、「幽霊を見た話」では怪談とは呼べない。一方「どう考えても幽霊としか思えない何かを見た話」は怪談と呼べる。両者の違いは一体なにか?

前述の通り、怪談とは「怖さを伝える話」である。ここで「怖さ」という感情について考えてみると、それは理性的な世界からは外れたところで生まれるものである。論理的な説明がつくようなものは、怖いとう感情には結びつかない。何か得体の知れないものを見たとき「あれは幽霊だ!」と説明を加えることは、その意味ではおかしなことである。幽霊を信じていない人であれば、例えば猫を見間違えたのでは、あるいは樹木がガサガサ揺れているのを見間違えたのでは……あらゆる現実的な可能性や解釈を考えるはずである。にもかかわらず、どう考えても説明のつかない得体の知れないものを見てしまったとわかったときにはじめて怖いという感情は生まれる。怖さの生まれる話、すなわち怪談である。仮にもし幽霊を信じている人が幽霊(と思えるもの)を見たなら、本来そこには恐怖は生まれないはず。幽霊の存在を信じているのだから、その人にとって幽霊を見るのはごく自然はことのはずで、「こんにちは」と挨拶でもすればいいだけの話。そこには怖さは生まれない。現れたものをすぐに幽霊と呼んでしまう話とは恐怖とは結びつかず、怪談とは呼べない。怪異とは、人の理解を超えた解釈不能な現象。それを伝える話こそが怪談である。まず想像し得ないものを想像できなければ怪談は作れないだろう。

では一体どうすれば、「怪談=怖さを伝える話」を書くことができるのか。例えば「生首が飛んだ」という文章に、怖さは感じられるだろうか? ちょっと文章として平凡ではないだろうか。この書き手はおそらく「生首ってキーワードを出しておけば、読む人は怖がってくれるだろう」と高を括った考え方をしているのだろう。この場合、それはどんな生首がなのか? 目は開いているのか? 血は滴っているのか? 生首というけど本当に生なのか? 腐ってはいないのか? これらを考えもせずに「生首が飛んだ」と書いても読み手に怖さは伝わらないだろう。怖さを伝えるためには、怪談小説の書き手はまず型にはまった表現に頼ってはいけない。書き手にとって何が、どう、どこが、なぜ怖いのかを考えに考え込む。それを文章へ込め、それをより怖くするにはどうすればいいのかをさらに考える。これこそ怪談の書き手の腕の見せ所である。例えば「生首が飛んだ」よりも「生首の目が見開いていた」という書き方のほうが、怖さのポイントが絞られていないだろうか?

本書は「怪談小説の書き方」という、読者層のターゲットの狭い本のように見えるが、本当にそうだろうか。本来すぐれた小説や物語とは、読み手の感情を激しく揺さぶるものでなければいけないはずである。ということは、本書の主題である「感情を揺さぶる文章とは何か? それをどうやって書くか?」という話は、あらゆる小説・脚本あるいはシナリオの創作にとって共通する重要なテーマと言える。やや大袈裟な言い方をすれば、物語を創作するための本質的なこととは、怪談小説の創作術から学べてしまうのだ。

(余談:この記事は、2016年7月22日、有隣堂STORYSTORY新宿店 ビブリオバトルで私が発表した内容をもとに作成した。なおビブリオバトル当日、有隣堂のスタッフから本書は品切れで入荷不可とのお話を聞いた。ぜひ復刊ドットコムなどへ働きかけを!)