稠密なる図書たち

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医療者が語る答えなき世界ー「いのちの守り人」の人類学 (著:磯野真穂)

 

 文化人類学者から見た、医療現場という世界ーーコンセプトを一言でまとめると、こうなる。なぜ文化人類学者が、医療現場を研究対象とするのか?
 冷静に振り返ってみると、病院とは、世間一般の常識とは外れたことが当たり前のように通用している場所である。例えばお医者さんは、患者に対し、当たり前の顔で「裸になりなさい」と迫ってくることも珍しくない。初対面の相手に裸になるシチュエーションとは、かなり特殊なケースだろう。この他にも、昨日の朝昼晩に何を食べたのかと、いきなりプライベートなことをほじくり返してくるのだ。普通こんな事を出し抜けに尋ねられると、思わず警戒をしてしまわないだろうか? しかし不思議なことに、病院という場で医者という立場の人かこう聞かれると、私たちは当たり前のように従ってしまう。このことから、病院という世界は、世間一般の常識から外れた世界、つまり異文化であると見ることができる。そして異文化の世界の住人を理解するには、文化人類学という枠組みが強力なツールになる。
 この本に登場する異文化人とは、すわなち医者や看護師や理学療法士など、医療現場で働く種々の人たちである。彼ら彼女ら医療従事者を理解するために、わざわざ文化人類学という大それたものを用意する意義とは一体何なのか? ここでちょっと考えて欲しいのだが、私たちは病院を訪れてお医者さんたちと会う時「この人たちが、私の病気や悩みを完璧に解決してくれるんだ!」という理想像のようなものを頭に描いていないだろうか?しかし、いくら医学が発達したとはいえ、完璧な治療というものはあり得ない。それに医者や看護師など医療従事者も、私たちと同じ人間であり、当然ながらそれぞれ悩んだり迷ったりしている。私たちの持っている「理想のお医者さん像」と「現実のお医者さん像」の間には、ギャップが存在する。このギャップを乗り越えて、お医者さんを1人の人間として、職業人として理解するにはどんな方法があるか? 異なる文化に身を置いている人間を理解しようとするとき、文化人類学という学問の出番となるのだ。著者は医療現場で働く人たちへ数多くのインタビューを行い、どんな思いで仕事をしているのか、自分の仕事についてどう考えているのか、などなどを本書で分析したのである。
 タイトルにも「答えなき世界」と書かれている通り、医療の世界には答えのない問題が数多くある。しかも判断を誤ると人の命にも関わるという、重い問題だってある。根本的な話をしてしまうと、そもそも医療とは患者の病気を治すためにあるものだが、実際には、絶対に治らない病気を抱えた患者だって存在する。そんな患者に対して医療者は一体何をしてあげることができるのか? これはなかなか答えの出せない問題だろう。まだまだある。自力で食事もできないくらい症状の進んだ認知症患者に対し、胃ろうを作ってまで栄養分を補給するという行為は適切なのか? 自力で入浴できない認知症患者を、ロープで縛り付けて無理やり入浴させるという行為は?どうしても高齢者施設を出て独居生活をしたいという患者に対し、何をしてあげるべきなのか?
 この他にも、医療現場には「答えのない問題」が溢れている。おそらく、医療とは人間の命に関わる仕事であるがゆえ、答えのはっきりしない問題がたくさんあるのではないだろうか。
 答えのない問題に対し、医療で働く人たちが何を考え、問題とどのように向きあっているのか? もちろん医療従事者と一言でいってもいろんな人がいて、いろんな考えがあり、同業者の間で意見が対立していることだってある。とはいえ、答えのない問題にぶつかって前に進もうとする人のことを理解するのは、読んでいて勇気付けられるところが数多くある。たとえ、最悪の結末を迎えるることとなってしまったエピソードであったとしても。
 余談。個人的に私がとても面白いと思った話。病院が舞台のテレビドラマで、これから手術をしようというお医者さんが、両手を前にかざしているシーンっというものを見たことがあると思う。あれは、お医者さんの体が汚れないように、周りの物や人に触らないようにするためと言われており、実際の手術でもこれと同じように、周りに触っちゃいけないというルールがあるのだ。しかし、実はあのルールには、科学的根拠は無いというのだ。というのも、ちょっとくらいお医者さんが周りの人やモノ触っても、あたかもエンガチョであるかのように、手術が不可能になるくらい体が汚くなるなんてことはそもそもあり得ない。では、このルールの存在意義とは一体なんなのか? 実はこれは、昔からこのようなルールがあるから今でもこのルールを守っているという、ただそれだけの話だそうな。
 この話はこれで終わりではない。ここからが、文化人類学っぽい考察になるのだ。まず、そもそも論からいくと、手術とは失敗は決して許されないものである。ところが実際にはいくら近代医学が発達したとはいえ、絶対に成功する手術というものは有り得ない。有り得ないのだ。だからこそ医療スタッフというのは、この手術を絶対に成功させるという強い信念を持つことが大切だといえる。意識を強く持て、と。この著者によれば、この触っちゃいけないルールというのは、医療者にとって、手術を成功されるという信念を強くするための儀式の役割をしていると分析してる。例えば、大学受験の祈願でお参りや、安産の祈願でお参りなど、そういう儀式と同じ役割を、この触っちゃいけないルールというものが持っていると言っている。医療現場を支えているのは近代科学技術だけではない。このような呪術的儀式が、従事者のメンタルの支えになることだってあるようだ。