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金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った (著:アンドレアスベルナルト、訳:井上周平、井上みどり)

 

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

 

  人類史上には、生活スタイルや社会のあり方そのものを変えた大発明というものがある。かつてであれば火薬や車輪やネジがこれに当たるだろうし、近現代では自動車やあるいはスマートフォンもそうだろう。
  しかし、エレベーターもまたそんな人類史上の大発明だと言われても、ピンと来ない人も多いのではないだろうか。そんな人は、この「金持ちは、なぜ高いところに住むのかー近代都市はエレベーターが作った」という本を読んで欲しい。エレベーターの歴史についての本である。エレベーターが社会に普及したことによって、人々の生活環境がどのように変化したかについて焦点を当てて分析・解説を行なっている。著者はドイツの方で、分析対象のエレベーターもドイツとアメリカのものが中心である。
  エレベーターの起源は、実はかなり古く、古代ギリシャやローマまで遡ることができる。ただし、この時代のエレベーターとは鉱山の発掘現場などのために使われていたもので、ロープが切れる事故がたびたび起こるなど、安全性に問題のあるものだった。エレベーターの安全性の問題が克服されるには、19世紀の中頃まで待たなければならない。この時代に、エレベーターの安全装置を発明したというプレゼンテーションが博覧会で行われた。ロープが切れてもエレベーターかごが自動的に停止して、中の人の安全が確保されるというものである。この安全装置の発明が、一般の人々が利用するためのエレベーターの生まれる土壌がとなったのだ。 (ただし本書によれば、このエレベーターの安全装置のプレゼンがエレベーター普及の起源であるというストーリーは後世の後付けで、実は博覧会が開かれた当時はこのプレゼンに対する反響はそれほど大きくなかったらしい。技術が社会に普及するスタートポイントというのはもう少し複雑だという話だ)
  エレベーターが一般社会に普及するようになったのは19世紀の終わりごろから20世紀に始めごろである。この頃、アメリカやヨーロッパで鉄骨の高層ビルが次々と建てられ始めた。そんな高層ビルにエレベーターが導入された。言うなれば、縦方向の移動装置である。このほか水道管や電気ケーブルもまた高層ビルの中を縦方向に走る要素である。縦方向を貫く要素とは、これまでの時代の建物には無かったもので、やや大袈裟な言い方をするなら、近代の建築を特徴付ける要素の1つでもある。
  しかし、エレベーターの登場とは、単に建物を上り下りするための便利な設備が誕生したというだけの話ではない、というのが本書の主題である。
  本書の邦題「金持ちはなぜ、高いところに住むのか」という言葉の通り、私たちは無意識のうちに「金持ち=高いところ」というイメージを持っている。金持ちに限らず、例えば映画やTVドラマでも、大企業の社長や重役が、ビルの高いところに社長室を構えて、窓ガラスから偉そうに外の街並みを見下ろすというシーンを見たことがあるだろう。では、このようなイメージがどのようにして生まれたのだろうか?
  実は、エレベーターが一般社会に普及する以前は、「金持ち=高いところ」というイメージは人々の間にはなかった。建物の最上階といえば当時は屋根裏部屋というイメージが強く、建物の高いところといえばむしろ貧乏人や召使いなど、身分の低い人々のための空間だったのだ。これはエレベーターが無ければ上り下りをするのが大変なので高いところでとても不便であることに加え、建物の最上階や屋根から太陽の熱が伝わりやすく、熱がこもりやすいため衛生面でも不潔な空間だった。その時代の金持ちは、低いところに住んでいたのだ。
本書では、エレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」の社会的なイメージ、つまり高いところ、低いところはどんな人のための空間なのかを、あらゆる角度から分析を行なっている。例えば高層ビルのホテルにおいて、高い階の部屋と低い階の部屋では宿泊料がどのように設定されていたのか? または、この時代の小説の世界で、高いところに住む人、低いところに住む人は一体どんなキャラクターとして描かれていたか? その結果わかったこと。エレベーターが普及して間もない19世紀の終わりごろまでは、まだ「金持ち=低いところ」というという旧時代の価値観が残っていた。そして時代が進んで20世紀になると「金持ち=高いところ」というイメージが生まれたということがわかった。つまりエレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」という場所が持つヒエラルキーが逆転したのだ。現在私たちが当たり前のように持っている「金持ち=高いところ」というイメージは、こうして生まれたのだ。
  エレベーターの登場によってもたらされた、身の回りの環境の変化はこれだけではない。私たちは、建物やビルの中は1階2階3階と空間が階ごとに水平方向に区切られていることに、何の疑いを持っていないだろう。実はエレベーターが普及するまでは、建物の中が階ごとにきっちり秩序立てられていないものも多かった。「階」という概念そのものはかつての時代にもあったのだが、それほど厳密なものではなく、中2階のように、部屋の床の高さが部屋ごとに揃えられていないものも多かった。エレベーターが建物に導入されると、エレベーターとは階ごとにしか止まることができないため、建物内の空間もエレベーターの動きに合わせるかのように階ごとに水平方向に秩序付けなければいけなくなった。「階」という概念が建物を秩序づけるためになくてはならないものになったのは、実はエレベーターの登場以降なのだ。
  エレベーターというと、今では私たちの身の回りに空気のように当たり前のようにあるものだが、実はこれは、社会の構造や、私たちの持っている社会的なイメージまで更新するほどの力をもったものだ。
  最後にひとつ、こんなエピソードを紹介。1913年、ロシアの皇帝がドイツを訪問したときのこと。最初はロシア皇帝一行は4階建ての建物に宿泊する予定だったが、とある事情から2階建ての宿泊所に変更された。そのとある事情とは次の通り。当時のロシアの皇帝やその側近は、歩き方やドアの開け方など、動作の一つ一つが様式として厳格に決められていた。しかし4階建ての宿泊所にあるエレベーターの中では、皇帝とその側近はどのように振る舞わなければならないのか、その様式がそもそも存在しなかった。だから皇帝もその側近も、どうやってエレベーターに乗ればいいのかまったくわからなかったのだ。王室と新技術とは、かくも食べ合わせが悪いものだ。