稠密なる図書たち

ビブリオバトル用図書の処分状況。

赤いオーロラの街で(著:伊藤瑞彦)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

私たちの想像し得る、最もリアルかつ最も過酷な危機的状況とはなんだろうか? 戦争や核兵器という答えがまず挙がるかもしれない。これと匹敵するくらいの状況として「エネルギーが無くなること」という答えもあるだろう。私たちの生活がどれだけ電力に依存しているかを考えれば、エネルギーが無くなるという状況がいかに過酷であるかは言うに及ばないだろう。しかも我が国はエネルギー自給率の低いことや自然災害の激しいことを考えると、これはリアルに考えうる危機的状況とも言える。ひょっとしたら今の現役世代にとっては、戦争よりもエネルギー危機のほうが、リアルに想像できる危機的状況なのかもしれない。

「赤いオーロラの街で」とは、そんな危機的状況を描いた日本のSF小説である。舞台は現代の日本。ある日、超巨大な太陽フレアが発生し、桁違いに巨大な太陽風が地球を襲う。これにより地球の磁気圏が大きく変形する。変形した磁気圏は元に戻るのだが、元に戻るときに強力な誘導電流が巻き起こる。この誘導電流で世界中の変電設備が焼き切れる。そして世界中で停電が発生する。焼き切れた大規模な変電設備は、作り直すことそれ自体に大きな電力を必要とするが、世界中が停電した今、変電設備を作り直すのに一体何年かかるのかまったく目処が立たない。おまけに、この巨大な太陽風の影響でGPSなど通信電波もほぼ使い物にならなくなってしまう。

電力も通信電波も使えないとなると、私たちの生活に一体どんな支障が起きるのか? 電灯が使えないので室内が暗い。冷蔵庫が使えないので食品の保存も難しい。水道ひとつとっても、水を汲み上げたり汚い水を処理したりするのにも電力が要るので既存の水道システムも役に立たない。エレベーターももちろん使えない。おまけに通信電波も使えないため、テレビも受信できない。携帯電話も使えない。つまり私たちの生活もあらゆるものを支えていたインフラが死んでしまうのだ。吉幾三もびっくりの文明レベルを受け入れざるを得ない。この作中の言葉を借りると、人々は中世並みの文明で生活せざるを得なくなったのである。

主人公は日本のごく普通のITエンジニア。たまたま北海道に出張に行っていたときのこの大災害が起きる。作品タイトル「赤いオーロラの街で」とは、太陽風の影響で世界中に赤いオーロラが発生したことに由来する。太陽風の影響でGPSが死んだため、飛行機が飛び立てなくなってしまい、主人公は北海道に立ち往生せざるを得なくなる。この北海道の地で、地域の人たちと協力しながら、この危機的状況でどうやって生活を立て直そうかと奮闘する物語である。

この小説には、特別な能力をもったヒーローのような存在はいない。主人公も含めて、皆がごく普通の人たちである。役場の職員、病院関係者、酪農家、土建業者、あらゆる職業の人たちが集まり、何ができるかを考え、実行していく。例えば、通信電波が死んだため、情報の伝達手段には回覧板や掲示板が使われるようになる。船の航海法には、GPSが発明される以前の、天測航法が再び重宝されるようになる。大規模な電気設備は死んだが、家庭用のソーラーパネルはまだ生きているものも多いため、それらをかき集めて、工場を稼働させる電力を作ろうという試みも行われる。

SF小説と呼ぶには、あまりに地味な行動や出来事が続く物語に見えるかもしれない。実際、物語の導入こそスケールの大きな話だが、そこから先はただ「生活を立て直す」という目的に向かって行動する様子が続くのみである。しかしこれは逆に、危機的状況への闘い方として私たちがリアルに感じることのできるものであるとも言える。結局のところ、太陽フレアというスケールの巨大すぎる災害を食い止めるなど、人類の叡智を遥かに超える行為である。私たちにできることは、起きてしまった事態に対して、いかに状況を立て直すかということのみである。一瞬ですべてを無かったことにしてくれる超越的な解決手段は存在しない。社会を立て直すことは、普通の人たちが力を合わせて地道なことを続けることによってのみ可能なことなのだ。

状況こそ深刻だが、それに対しこの小説の登場人物たちがどんな工夫を凝らすのか、その様子を読み解くのはとても楽しい。それは、この主人公も台詞にも現れている→『不謹慎な話かもしれないけれども、停電当初に起こったことを聞きに町内を回ることは、とても楽しい仕事だ。それは、世界停電前までは意識することもなく生活に使っていた様々な社会システムを、つまり世界がどのように成り立っていたのかを知る作業と言えた。(p204-205)』