稠密なる図書たち

ビブリオバトル用図書の処分状況。

イギリス紳士のユーモア(著:小林章夫)

 

 

イギリス紳士のユーモア (講談社学術文庫)

イギリス紳士のユーモア (講談社学術文庫)

 

 イギリス紳士のような、高貴なマナーの立ち振る舞いのできる大人になりたい。しかしイギリス紳士って、一体どうやったらなれるのか? 「まずは形から入る作戦」で、シルクハットにコウモリ傘を片手に街を歩いてみるところから入ってみるのも悪くないかもしれない。しかしたったこれだけではただのコスプレでしかない。もっと内面からイギリス紳士になりきりたい! という我儘な欲望も自然と生まれるはず。そんなときは「イギリス紳士のユーモア」を学んで、内面からイギリス紳士になりきるのだ。そもそもイギリス紳士のユーモアとはなにか? その辺のおっさんのユーモアと何が違うのか?その謎に迫るためには、まず「イギリス紳士とは何か」という問題を深く掘り下げるという準備運動が要る。

著者はもともとイギリス文学専攻の大学教授。著者はイギリスへの留学経験があり、本書はそこで得た体験を元に書かれている。イギリス紳士は伝統を大切にする、フェアな精神に重きをおくといった話が、著者の実体験エピソードとともに書かれている。このあたりはエッセイとして軽妙な文章で書かれているので、リラックスして気楽に読むことができる。

注意しなければならないのは、イギリス紳士にも大きく分けて二つの出身があることだ。これを理解するには、イギリス社会がどのように変化してきたかに注意せねばならない。まず一つは、中世の時代から名門的な家系出身の、正統な紳士。もう一つは、時代が進むにつれてイギリスでも封建社会が崩れてきたため、それに伴い現れた庶民階級出身の成り上がりの紳士。どちらの紳士も、紳士らしい作法やマナーをどこかで学ばなければ、イギリス紳士を名乗ることは許されない。名門出身の紳士は、家系がそもそも紳士なので作法やマナーも家庭内教育によって得ることができる。では成り上がり紳士の場合は? 封建社会が崩壊したころイギリス社会ではパブリックスクール、つまり学校教育が普及し、成り上がり紳士はそこでマナーや作法を身につけ、さらにスポーツを通じてフェアプレーの精神も学んで、こうして紳士に成り上がったのである(ここで、ジョナサン・ジョースターが少年時代にボクシングをしているシーンが頭に浮かぶ。彼もれっきとした英国紳士なのだ)。

では、そんな紳士的作法やマナーを見につけたイギリス紳士にとってのユーモアとはいかにあるべきか? 紳士にとって大切なのは、おおらかな精神、そしてどっしりとした余裕ある態度。ユーモラスな発言をするときも、この精神を決して忘れてはならない。つまり、単におかしなことを言うだけでは、その辺のおっさんとなんら変わらない。ユーモアをゆとりある紳士的な態度で包みこむことが必要なのだ。感情を表に出してもダメ。いつでも平然とした態度でいなければいけない。この本にではイギリスの元首相チャーチルのユーモア発言がいくつも紹介されていて、人を食ったようなユーモアがいくつも紹介されている。厳しい質問を浴びせる新聞記者に対しても、ユーモアを武器に平然と返り討ちにしてしまうのだ。この辺りで、「イギリス紳士のユーモアって、ハードル高くね?」という諦めの精神が脳裏をよぎってくる。

イギリス紳士のユーモアの深淵、それはブラックユーモア、つまり毒のあるユーモアである。ガリバー旅行記の著者であるジョナサン・スウィフトという作家は、イギリス紳士であると同時にもともとはアイルランド出身。当時アイルランドでは貧困問題や食糧危機が深刻だった。そこでスウィフトは「穏健なる提案」と呼ばれる文章を発表した。しかしこれが穏健とは程遠い、毒々しさに満ちた内容だった。アイルランドの貧乏人は赤ん坊を食べてしまえば貧困問題は解決だ、という過激な提案を行なっているのだ。この本にはその文章が引用されているが、淡々とした文章で、赤ん坊の体重は何キロだとか、これで何人ぶんの食料を得られるとか、殺伐とした話を数値によって説明している。とても笑えるような代物ではない。この文章を読んだ夏目漱石も、本気でこれを書いているのだというなら狂っているとまで言っていた。なぜここまでぞっとするような文章を発表したのか? アイルランドの貧困問題は、イギリス内でいくら声高らかに訴えてもだれも興味をもってくれない。ならば過激な内容で訴えることで注目を浴びるのだ。つまりスウィフトは単にに猟奇的な話を書いたのではない。ブラックユーモアの使い方と効果を知り尽くしてたうえでの、この文章なのだ。

表情ひとつ変えない態度がイギリス紳士のユーモアではあるが、その深淵は深くて黒い。私はこの本さえ読めば自分もイギリス紳士になれるのではと期待していたが、結論としては、とても一朝一夕ではイギリス紳士のユーモアは習得できそうもないことがわかってしまった。

怪談の学校(著:京極夏彦、木原浩勝、中山市朗、東雅夫)

 

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

怪談の学校 (ダ・ヴィンチ ブックス―怪談双書)

 

 怪談とは、日本に古くからある夏の風物詩の一つ。怖い話を語り合って、ゾッとして、涼しくなろうという文化・風習である。

怪談について扱った本は、古典から現代に至るまで数多く存在する。その事実こそ、時代が移り変わろうとも怪談という文化が脈々と生き続けている何よりの証である。その中でも、この記事で紹介する「怪談の学校」(「学校の怪談」ではありません!)はかなり風変わりなアプローチの怪談書である。

著者は「怪談の怪」という、京極夏彦木原浩勝、中山市朗、東雅夫という豪華4人によるユニット。京極夏彦といえば「京極堂シリーズ」でお馴染みの小説家。「嗤う伊右衛門」など怪談をモチーフとした小説も多数執筆している。木原浩勝・中山市朗といえば、実話怪談小説シリーズのベストセラー「新耳袋」の著者。東雅夫もまた、怪談・ホラーあるいは幻想文学の分野でも数々の仕事を手がけている編集者かつ文芸評論家である。

「怪談の学校」の内容を一言で説明すると、怪談小説の書き方の指南書である。雑誌「ダ・ヴィンチ」で、かつて公募企画「怪談小説・創作教室」というものがあった。募集要項は「四百字詰原稿用紙三枚以内で、あなたの思う『怪談小説』を創作してください」というもの。投稿作品の中から選ばれたものへ、著者4人が怪談執筆について添削指導するという企画であり、全32回にわたりダ・ヴィンチに掲載された。この企画は1999年から2004年まで続き、投稿作品は一千編近く寄せられた。「怪談の学校」とは、この連載企画が単行本化されたものである。例えば「小説の書き方」や「シナリオライターの入門書」という類の書籍であれば世の中にすでに数多く流通しているが、「怪談小説」にターゲットを絞った創作教室というものは本書以外にはほとんど類を見ないものであろう。

本書ではどんなスタンスで「怪談の書き方」を教えているのか? そもそも怪談とは何か? 言うまでもなく、怪談とは「怖さを伝える話」である。では「怖さを伝える話」とは、一体どんな話だろうか? 本書ではまず、「少なくとも我々4人の間で、怪談の定義についてある程度は確立させておく必要がある」という話から始まる。

世間一般では、怪談といえば「幽霊が出てくる話」「妖怪が出てくる話」あるいは「トイレの花子さんが出てくる話」というイメージも強い。しかし本書では、これらを「怪談」と呼ぶことについて異を唱えている。彼ら4人にとって、「幽霊を見た話」では怪談とは呼べない。一方「どう考えても幽霊としか思えない何かを見た話」は怪談と呼べる。両者の違いは一体なにか?

前述の通り、怪談とは「怖さを伝える話」である。ここで「怖さ」という感情について考えてみると、それは理性的な世界からは外れたところで生まれるものである。論理的な説明がつくようなものは、怖いとう感情には結びつかない。何か得体の知れないものを見たとき「あれは幽霊だ!」と説明を加えることは、その意味ではおかしなことである。幽霊を信じていない人であれば、例えば猫を見間違えたのでは、あるいは樹木がガサガサ揺れているのを見間違えたのでは……あらゆる現実的な可能性や解釈を考えるはずである。にもかかわらず、どう考えても説明のつかない得体の知れないものを見てしまったとわかったときにはじめて怖いという感情は生まれる。怖さの生まれる話、すなわち怪談である。仮にもし幽霊を信じている人が幽霊(と思えるもの)を見たなら、本来そこには恐怖は生まれないはず。幽霊の存在を信じているのだから、その人にとって幽霊を見るのはごく自然はことのはずで、「こんにちは」と挨拶でもすればいいだけの話。そこには怖さは生まれない。現れたものをすぐに幽霊と呼んでしまう話とは恐怖とは結びつかず、怪談とは呼べない。怪異とは、人の理解を超えた解釈不能な現象。それを伝える話こそが怪談である。まず想像し得ないものを想像できなければ怪談は作れないだろう。

では一体どうすれば、「怪談=怖さを伝える話」を書くことができるのか。例えば「生首が飛んだ」という文章に、怖さは感じられるだろうか? ちょっと文章として平凡ではないだろうか。この書き手はおそらく「生首ってキーワードを出しておけば、読む人は怖がってくれるだろう」と高を括った考え方をしているのだろう。この場合、それはどんな生首がなのか? 目は開いているのか? 血は滴っているのか? 生首というけど本当に生なのか? 腐ってはいないのか? これらを考えもせずに「生首が飛んだ」と書いても読み手に怖さは伝わらないだろう。怖さを伝えるためには、怪談小説の書き手はまず型にはまった表現に頼ってはいけない。書き手にとって何が、どう、どこが、なぜ怖いのかを考えに考え込む。それを文章へ込め、それをより怖くするにはどうすればいいのかをさらに考える。これこそ怪談の書き手の腕の見せ所である。例えば「生首が飛んだ」よりも「生首の目が見開いていた」という書き方のほうが、怖さのポイントが絞られていないだろうか?

本書は「怪談小説の書き方」という、読者層のターゲットの狭い本のように見えるが、本当にそうだろうか。本来すぐれた小説や物語とは、読み手の感情を激しく揺さぶるものでなければいけないはずである。ということは、本書の主題である「感情を揺さぶる文章とは何か? それをどうやって書くか?」という話は、あらゆる小説・脚本あるいはシナリオの創作にとって共通する重要なテーマと言える。やや大袈裟な言い方をすれば、物語を創作するための本質的なこととは、怪談小説の創作術から学べてしまうのだ。

(余談:この記事は、2016年7月22日、有隣堂STORYSTORY新宿店 ビブリオバトルで私が発表した内容をもとに作成した。なおビブリオバトル当日、有隣堂のスタッフから本書は品切れで入荷不可とのお話を聞いた。ぜひ復刊ドットコムなどへ働きかけを!)

講座の覚書:抽象線型代数ーShift不変部分空間と最小多項式

2週間くらいまえに受講した、線型代数の講座の覚書をここに記す。定義や数式などの話はズバッと省略して、まずキーワードをパラパラと並べて、どんな話を聞いたのかをざっくりと書いて、最後に個人的な感想を述べる。

今まで習ったこと

この線型代数の講座は昨年5月から続いているものである。これまで扱った講座内容についてキーワードを並べると、線型空間の公理、線型部分空間、線型独立・線型従属、基底と次元、線型写像、KernelとImage、線型同型、双対空間、線型写像の行列表示、基底の変換、内積、正射影定理、線型写像のAdjoint、対称変換。基本的には有限次元を中心に扱うけれど、無限次元でもそのまま使える定義や定理についてはこれも含めて話をするという形を取っていた。

今回から3回の講座で、有限次元での線型変換の構造論の話をやる。「ベキ零」「半単純」に分けるとJordan標準形が出てくる、という話。ただし関数解析の無限次元の世界で、この構造論がそのまま使えるかというとそうはいかない。Jordan標準形は一般の無限次元の上ではうまくいかない。今回は将来やるような高級な問題の雛型になるような最も単純なことを扱う。これが高級になると環の表現論になるが、ここではその中で最も素朴な、多項式論を扱う。ここでの話がわからないまま関数解析をやっても、何をやっているかわからなくなるだろう、とのこと。

今回の講座内容

第1回の講座で、出てきたキーワードを並べると、こんな感じ。

・これまでの復習(固有値固有ベクトル・固有空間の定義の確認、基底の変換に伴う行列表示変換、行列式、固有多項式

多項式空間のShift不変部分空間

・最小公倍多項式、最大公約多項式

・Bezoute恒等式

・線型変換の最小多項式

固有値固有ベクトル、固有空間の話は単なる定義の確認だったけど、「固有値固有ベクトル、の順に定義しないとおかしなことになるのに、たまに逆の順序で定義している、おかしな本もある」と先生がぼやいていた。

線型変換の行列表示の復習。可換図式をじっと眺めて、どうなっているのかを理解せよとのこと。これは単純な例だけど、構造で理解することが大切だと先生はよく言っている。構造を見てすぐに見抜けるようになること、でないと無限次元のときに迷い道に入ってしまう、と。

線型変換の行列式も、今までの復習。この行列式は基底の選び方によらない不変量。つまり計算するときは都合のいい基底を使っていいということ。線型変換のTraceや固有多項式も、基底の取り方に依らない不変量。変換のなかにある不変性があって、不変的な対象になり得る。

ここまでの話が復習で、ここからが本番といったところ。Kを体として、Kー多項式全体の作る空間(多元環)を考える。この上でShift不変部分空間(以下、Shift不変と略記する)を定義して、多項式空間の上ならばShift不変とイデアルが完全に一致することを確認する。一般にはこの二つは一致はしないらしいが、多項式空間の上へ概念を矮小化させたものを扱っているのでこの場合は一致するのだ、とのこと。「正則表現」というものをやると、Shfit不変の一般バージョンがあらわれるという。

次に、ここから先の議論の準備として、多項式の算術をやる。初等整数論で言えば、最小公倍数・最大公約数の話。Shift不変と最小多項式が一致することを利用する。「多項式ののイデアルの共通部分と、最小公倍多項式イデアルが等しいこと」「多項式イデアルの和と、最大公約多項式イデアルが等しいこと」を証明する。イデアルを用いると、割り算の構造がよくわかるという話。

続いて多項式のBezoute恒等式。Bezouteは19世紀半ばの数学者で、Cauchyの仕事を一般化した人。

最後に、多項式環線型空間への表現を定義し、「これが多元環の準同型であること」「線型変換の最小多項式を定義し、この線型変換の固有値との関係を調べること」をやった。

感想

まずイデアルが当たり前のように出てきて、当たり前のように使いまくるとういことに最初はちょっと戸惑いを感じた。というのも、私は環論はまだあんまり勉強したことがないからだ。イデアルの定義そのものは単純なのでこれは知っていたけど、どういう局面で使われる概念なのかをほとんど理解していなかった。だからこの講座を受けて「なるほど、こういう風に使うんだ」という意味で勉強になった。今やっていることと並行して、環や加群についてもパラパラと自習しとくのもいいかもしれない。

それと、多項式環の話が中心だが、「割り算の基本定理」もいろんなところに出てくるということもわかった。多項式の算術にはもうちょっと慣れておく必要があるな、という感想。私はまだ多項式の扱いすら慣れていないのだが、将来はもっと抽象的で得体の知れないものを相手にするんことになるようなので、多項式はきわめて具体的な対象なので、まずはこの扱いに慣れておかないとこの先は話にならないだろうな、と、そんな予感はしている。

以上。次回は線型変換の分解や、単純・半単純からやるっぽい。

 

藤津亮太「アニメを読む 心が叫びたがってるんだ。」を聴講してきた。

昨日、朝日カルチャー新宿での藤津亮太氏による講義「アニメを読む 心が叫びたがってるんだ。」を聴講してきた。講義内容全部をここに書くわけにはいかんだろうけど、面白い話だなと思ったことをつらつらと箇条書きしてみる。

・作品の特徴

キャラクターが主体的にストーリーを動かしていくというよりは、何でもないような行動や出来事がきっかけで周りの心が変わったり、動かされたりしていくということでストーリーが進んでいく。そして人と人との心理的な距離感が丁寧に描かれている。人の距離感については、何気無い会話のシーンでも、一方の人物は建物などの影の中に、もう一方は影の外に配置することで二人の距離感を表現するという手法が多用されている。

・脚本構成

アニメ映画に限らず映画脚本一般の話として、映画脚本を3幕構成として分析したとする。大抵の脚本家なら、2幕の前半まで、つまりストーリーの布石を作っていくところまではすんなり作れる。だが2幕目後半で、いままでの話をどれくらい整理して、落ち着くべきところへ落ち着かせるかというところでいつも苦労するのだという。
「ここさけ」では、当初は脚本の岡田麿里は物語のクライマックスで一気に話が収束していくような話にしようとしたというが、監督の長井龍雪は、1つのエピソードはそのエピソード内で解決していくような形にしたいという意識があったという。
メインキャラ4人のうち、誰が主役とは決めないまま作っていき、結果として順がストーリーを動かしている側面があるため、順が主役のような存在になったという。

・ミュージカルシーンについて

後半のミュージカルシーンは、振付け師が振り付けを考案し、そのライブアクションを撮影してロトスコープを起こしたカットもあるという。ただしダンサーが全員女性かつプロだったので、男子に置き換えたり、高校生らしい演技にしたりと、撮影されたものをそのままなぞっているわけではないという。
余談めいた話として、戦前からの日本でのミュージカルの受け取られ方について解説があった。戦前の日本にも、ミュージカルと呼べるものは、浅草オペラ団や宝塚少女歌劇団などが演じていたが、それらは当時は「音楽劇」と呼ばれ、「ミュージカル」と呼ばれることはなかった。日本人にミュージカルというものを強烈に押し出したのは、戦後の1963年「マイ・フェア・レディ」。これは「本格的ミュージカル」という触れ込みで宣伝された。ここで、では今まで日本にあったミュージカルはミュージカルではなかったのか? という矛盾も生まれる。この辺りの話の参考文献として、三上雅子「第二次大戦後の日本におけるミュージカル受容史(1)」が紹介される⬇︎

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DB00010870.pdf

日本人には「ミュージカルが苦手」という人もいる。だがら「ここさけ」でも、ミュージカルをやりますって話になったとき生徒の何人か文句をつけるシーンを入れた。このシーンで、ミュージカル嫌いの意見を代弁させ、作品へのツッコミを作中人物によって先取りさせている。そうすることで作品の視聴者のうちミュージカルが苦手な人に対して、この先のミュージカルシーンへの抵抗を緩和させている、という仕掛け。

・アニメ的ギミックが無い作品であること

超平和バスターズの三者による作品「とらドラ!」も、ラノベ原作とはいえアニメ的なギミックが無い作品であり、「ここさけ」もこれが無い作品。オリジナルのアニメ映画で、アニメ的ギミックの無い作品というのは、ここ10年くらいは京アニがよくやっている(たまこラブストーリー、など)印象があるが、調べてみるとこのようなアニメ作品は意外にも少ない。歴史モノを含めると世界名作劇場シリーズが該当するが、現代劇に限定すると、少ないのだという。

・興行成績

「ここさけ」の興行成績は11億に届いた。オリジナルのアニメ映画企画で10億を超えるのは難しい。原作ありの、細田守時をかける少女」ですら2.6億だった。ただし次作の「サマーウォーズ」は16億。「ここさけ」の興行成績も「あの花TVシリーズ」➡︎「あの花劇場版」➡︎「ここさけ」というステップを踏んだからこそこの成績を残せたのだろう。これはプロデュースの力でもある。

・一般層へ売り込むということ

アニプレックスも、細田守のような一般層向けへ売り込めるものを作れる作家を育てようとしてとしているだろう。ポスト細田はこの超平和バスターズかもしれないし、あるいは京アニ山田尚子かもしれない。候補は他にもいるだろう。

「初見ではわからない、何回か見ないと気付けないシーンがたくさんあるが、このアニメ映画は本当に一般層向けなのか?」という受講者からの質問に藤津氏は「制作側は、初見ですべてをわかってもらえなくても構わないと考えているだろう。これは、再見に耐えられる作品となるように作っているとも言える」と答えていた。

日本建築学会構造系論文集 2016年6月 を流し読みした。

序文(研究背景・研究目的あたり)をざっと流し読みしただけだが、思ったことをつらつらと。

掲載論文は11タイトル。かつてと比べて冊子が薄いように思えるのは先月と同様。

Twitterでも触れたけど、山本剛ら「木造住宅の屋根にに堆積した火山灰の滑動に関する一考察」は、かなり珍しい研究だと思う。背景としてあるのは2014年の御嶽山の噴火。これを受けて内閣府はWP(ワーキンググループ)を設立して「御嶽山噴火を踏まえた今後の防災対策の推進について(報告)」という形で今後の火山防災対策について取りまとめている。これはWeb上で閲覧できる⬇︎

http://www.bousai.go.jp/kazan/suishinworking/pdf/20150326_hokoku.pdf

この報告書では、噴火による建築物への被害についての言及はない。しかし過去の事例では、噴火時に堆積した火山灰の重量による屋根の破損、あるいは建物の崩壊というケースはあるとのこと(とはいえ日本では、大正3年の桜島大正噴火以降はこのような被害は見られていないらしいが)。

という訳で噴火時に屋根に堆積するであろう火山灰の重量を正しく評価式をしなければという、そんな研究である。実験風景はこんな感じらしい⬇︎

f:id:n2n2n:20160618133648j:image

f:id:n2n2n:20160618133650j:image

 

濱本卓司ら「形状可変浮体構造物の水槽実験」は、海洋空間を建築に利用するための浮体モジュールについての研究(水槽実験による基礎的研究)。複数のモジュールを連結させることで、形状や規模や機能などを好きなように変えられるというアイデア。このモジュール同士の連結部や係留部に着目した研究。モジュール連結システムというものが具体的にどういうものかというと、このパワーポイントを見るとなんとなくわかったような気分になると思う⬇︎

(以下の画像は”http://news-sv.aij.or.jp/kaiyo/s0/海洋2004.pdf”より)

f:id:n2n2n:20160618141131j:image

f:id:n2n2n:20160618140425j:image

 

今後普及あるいは実用化するのかは謎だが、海に浮く六角形のオブジェという光景のイラストは、個人的には嫌いじゃない。

 

 

 

ウルトラスーパーざっくり線型代数の歴史

微積分の起源といえば、17世紀のニュートンライプニッツにある。これは有名。すごく有名。もちろんその後の時代の流れとともにその理論は進化を遂げたが、とても顕著なエポックメイキングがこの17世紀にあることは間違いない。
では線型代数の起源とは? どんな歴史を経て、いつ頃完成したのか? 私の通っている教室の先生が線型代数の講義のはじめにその歴史をざっくり語ってくれた。それをメモったものをベースにこの記事を書いてみた。
線型代数のアイデアの起源は、実は古代メソポタミア文明まで遡ってしまう。ここでは連立一次方程式の理論も研究されている。13世紀のフィボナッチの算盤でも、連立一次方程式のアルゴリズムの問題が扱われている。現在の線型代数の教科書は行列の話から入っているものも多いが、行列とは、古代からあるこれらの算術に過ぎない。古代中国にも連立一次方程式の行列による解法がすでにあった。
その後の時代の、フェルマーあたりの解析幾何まで行くと、ここで座標という概念のはじまりである。パラメータtによる幾何表現が生まれた。
フランス革命後のころ、微積分が生まれた。ここで線型微分方程式の解法のなかに、重ね合わせの原理という、線型写像を特徴付ける原理も見て取れる。フーリエ級数の理論にも、重ね合わせの原理やテンソル積の起源とも言えるアイデアが含まれている。他にも、微積分の現象を能率よく表すために、線型写像が導入された。今日の数学でいうところの次元も、もとは数理科学のパラメータが起源といえる。このほか行列式外積多様体など線型代数の基本となる概念が19世紀までに数多く生まれたが、今日の線型代数として体系化されるには至っていない。
20世紀に関数空間が誕生した。実はこれは線型代数より先に出てきたのである。そこからヒルベルト空間やバナッハ空間など無限次元の空間が問題となった。この後、ブルバキによって抽象線型代数がまとめあげられた。線型代数の最先端である作用素環に至る。
つまり線型代数の事始は古代なのだが、体系化されたのは20世紀前半の話である。つまり、古くて新しいものなのだ。なかなか渋い学術分野ではないか。

フーリエ級数論を通じて19世紀の実解析学の流れを眺めてみた。あるいは振動論のご先祖様のお墓参りでもある。

弱気なまえおき:数学の話がいろいろ出てきますが、厳密な定義や数式や論理は避け、なるべく直感に訴えるような書き方をしています。ただ、記事に間違いがありましたらそれは私の至らないところとして甘んじて受け入れますので、コメント頂ければ幸いです。

では本題。

私の通っている数学の教室では、今年4月くらいまで、解析学の入門講座があった。具体的には、1変数の関数の微積分について学んだ(具体的にはには、実数の公理系から出発して、数列の収束・収束級数・連続関数・微分・リーマン積分・関数列の収束・形式べき級数・実解析関数としての指数関数や三角関数テイラー展開あたり)。最後のほうでは、フーリエ級数も扱った(具体的には、形式フーリエ級数・ディリクレ核・フェイェール核・ワイエルシュトラス多項式近似定理などなど)。

このゴールデンウィークに、19世紀までのフーリエ級数論の流れを見ることで、実解析学の歴史を俯瞰しましょうという講座があったので、それを受けてきた。フーリエ解析というと、私の専攻である耐震工学でもよく出てくる話。しかし、本格的に勉強したこともないし、もちろん理解もしていない。たとえば建築の構造屋さんには名著と名高い、柴田明徳先生の教科書「最新耐震構造」でも、フーリエ解析に1章を割いている。しかし、さっぱりわからん。用語の意味が色々載ってはいるが、なんでこれらが成り立つか、実際にどうやって使うのかが、私にはさっぱり理解が及ばなかった。柴田先生の教科書を読んで「フーリエ解析」と「ランダム振動」の話を理解できた人はいるのだろうか? という素朴な疑問もある。

 

最新耐震構造解析(第3版)

最新耐震構造解析(第3版)

 

 話を元に戻すと、講座内容は18世紀に勃発した弦の振動方程式論争から始まる。両端を固定した弦ばビロビロ振動する様子を、ニュートン力学に従って微分方程式にしたもの。

f:id:n2n2n:20160508192052j:plain

この解、つまり弦が振動するときの変位と速度を表す関数とはどんな関数か? という問題。振動方程式といえば、地震波や建物の地震応答もまた振動。言うなれば、耐震工学でも使われる振動論のご先祖様がこのあたりなのだろう。ありがたやありがたや。

ダランベールとダニエル・ベルヌーイ(以下、D.ベルヌーイと表記する)が、それぞれ別の解を示した。ダランベールの解は純数学的かつ抽象的で、「任意関数」なるもので解を表現できると証明をしたもの。これに対しD.ベルヌーイは、この解は「自然現象の立場から違和感がある」と批判。D.ベルヌーイはこの解は三角関数級数(つまり三角級数)で表現できるとし、楽器の弦で実験してそれが正しいと主張した。純数学的立場VS実験科学的立場。なかなか熱い。

オイラーはこれらの解にそれぞれ批判を示した。ダランベールに対しては「任意関数」つまり関数であればなんでもいいという考えが奇妙と批判。この時代ではそもそも「関数」の定義がはっきりしていなかったという問題もあるが、ダランベールの考えていた関数は、何回でも微分できることを前提としているなど、実は関数ならなんでもいいという考えは成立しない。つまりオイラーの批判は正しかった。D.ベルヌーイに対する批判は、この三角級数による表現がすべての解を言い尽くしているのか? ということ。ちなみにこの時代のアカデミックな論争というのは、今の時代では考えられないくらい攻撃的で辛辣で、相手をコテンパンにしかねないような論調だったとか。ただ現代を振り返ってみても、SNS上の論争がいかに下劣でナンセンスで野蛮であるかを考えると、現代人も昔の人をバカにはできないのではと私は思ってしまうのである。

この論争に一つの答えを示したのはフーリエフーリエの理論は基礎の部分であやしいところがある。たとえば、フーリエは周期2πの連続関数はフーリエ級数で表せるの主張したが、その級数が収束することを前提として話を進めている。ただし基礎は怪しいものの、その怪しい前提を認めてしまえばフーリエの主張は正しく、大きな成果を上げている。ここからダランベールの解もD.ベルヌーイの解も導くことができてしまう。それにフーリエの理論を使えば2階微分の方程式の数理物理の問題が次々に解けてしまう。そもそもフーリエがこの理論を作ったもの熱方程式を解くためだった。

その後、フーリエ級数が収束する条件についていろんな人が研究し、いろんな人が挫折したという。その中で成果を上げたのはディリクレ。しかしまだ未解決の問題はある。それを進歩させたのがリーマン。リーマンの書いた論文の主旨は「収束する三角級数の包括的な研究」であり、特に、ディリクレのやり残した三角級数の一般論を問題にしている。
ディリクレの仕事の未解決問題をまとめると、
・「任意の積分」とは何か?
フーリエ級が収束するための条件は何か?
フーリエ級数で表示した関数が、逆変換でもとの関数に戻るための条件は何か?
となる。まず、この時代までの積分とは連続関数しか扱えなかったが、ディリクレの解決していない問題を扱うために、リーマンは積分概念を拡張して、今まで積分できなかった関数も積分できるようにした(それでも積分できない関数はまだあるが)。これがリーマン積分。ちなみに今の微積分の教科書に載っているようなリーマン積分の定義は、リーマンのオリジナルのものではない。ダルブーの手で洗練されたものである。ルベーグ積分も、教科書に載っているのはオリジナルのものではなくカラテオドリによって抽象的に洗練されたものらしい(測度論の話は、まだ私はやってないのでよくわからんが)。どうも時代の先駆者のアイデアというものはなかなか理解され難く、後の人によりそのアイデアが洗練された功績というのも偉大だもののようだ。この話とは関係は薄いが、リーマンの論文「幾何学の基礎をなす仮説について」は文庫でも読める。しかし、なにが書いてあるかはすごくわかりにくい。数式を飛ばして読んでもすんごいわかりにくい。

 

幾何学の基礎をなす仮説について (ちくま学芸文庫)

幾何学の基礎をなす仮説について (ちくま学芸文庫)

 

 

不連続だけどリーマン積分可能な関数の具体例として、こんなものがある。

f:id:n2n2n:20160508192104j:plain

この関数は一実変数、つまり数直線上の関数だが、絶対に図式できない。疑問に思う人がいたら実際に描いてみるとよい。絶対に描けないから。定義はできる、だが図式できない。どんな関数なのかは感じ取るしかない。 Don't Think. FEEL! (いやいや)。数学屋さんからすればこの程度のことを考えるのは当たり前なんだろうけど、私のような門外漢からすればかなりヘンタイっぽい世界に思えてします。だがこのヘンタイっぽさが個人的にはたまらないのだ。

その後、リーマンの三角級数論の未解決問題はカントールも取り組んだ。集合論の創始者として名高いあのカントールカントールははじめはクロネッカーの弟子として数論に取り組み、その後ワイエルシュトラスから解析学を学び、ハイネの影響で三角級数論を始めたという。カントールの論文は三角級数論から始まるが、そこから点集合論、さらに一般の集合論とどんどん話が抽象的に発展していったという。先生はクロネッカーカントールの論文を読んだことがあるらしいが、先生によれば、クロネッカーの論文は明晰だけどカントールのはなにが言いたいのかわかりにくい論文だったのだとか。先生曰く、今でも結果の正しさやアイデアの優秀さは凄いがその反面論文の言いたいことがおぼろげな人もいるし、そういう人の論文を他の人が手直ししようすると怒ることも多いんだとか。あるある(個人の感想です)。

数直線上の関数で、ヘンタイっぽいのをもう一つ。1実変数の関数で①有理数では連続、②無理数では不連続、という関数は存在しないという主張。これはボルテラというイタリアの数学者が、カントールの研究結果を応用して証明したんだとか。実際、証明の途中でカントールの区間縮小法を使った。大学数学の微積分の教科書で、実数の完備性(連続性ともいう)のところで出てくるアレである。単純な定義から作られる摩訶不思議の世界というのはゾクゾクする、と私は思う。それはともかく、つまりカントール集合論はその後の実解析学でも大いに使われたという話である。
カントール以降の時代の、ベールやルベーグの話もあったけどこの話は省略する。証明は省略した概要的な話だったのと、単に私がまだ測度論や位相空間論をやっていないので、このあたりの話は説明できる自信がないから(ごめんなさい)。あと、フーリエ解析学は20世紀以降も発展するけど、その話は今回の講義ではなかった。あっても、まず間違いなく私ではついていけない。
今回の講座の収穫は、1実変数の微積分という一見初歩的な世界でも、深淵が見えないくらいディープな世界であることが体感できたことだろう。沼だ。あと個人的には、振動論のご先祖様を参ることできたのはなんだかしみじみする。